3歳から赤穂に住んでいる私が初めて義士祭に参加したのは、小学3年生の時でした。友達に誘われて、それぞれの親と一緒に参加したのを覚えています。親が赤穂の人間なら、もっと馴染み深く、小さい頃から参加したと思いますが、親が赤穂の人間ではなかったので、友達がきっかけとなりま
赤穂義士とは?
した。赤穂義士祭が毎年12月14日に行われるのは、赤穂義士たちが討入りを果たしたのが12月14日だからです。赤穂義士たちの偉業を称え、赤穂市最大のイベントとして、赤穂義士祭が開催されています。ではここで、赤穂義士について少し詳しく述べたいと思います。元禄14年(1701年)、こ
の頃は、将軍の使いが、朝廷へ年始の挨拶のために京都へ行き、また朝廷から、天皇・上皇の使いである勅使・院使がお礼の挨拶に江戸へ下るのが習わしでした。礼儀作法を重んずる朝廷の古いしきたりによって、この勅使らを幕府に迎える儀式が行われていたのですが、そのため勅使をもてな
す役になった大名は、大変頭を悩ませました。この年の正月に、高家の吉良上野介義央が、将軍の使いとして京都へ行き、そして赤穂藩三代目藩主である浅野内匠頭長矩が、勅使をもてなす役である御馳走役に命じられました。内匠頭は、しきたりについては高家の上野介に教えをあおいで滞り
なく勤めるように、老中から言われました。内匠頭がこの役を命じられたのは17歳の時で、無事役目を果たしましたが、何か変わった所があるかもしれないと吉良邸を早速訪ねさせ、指導を願い出ました。この時、浅野家の家臣からは、「上野介には先に贈り物をした方が良いのではないか」と
いう者もいました。しかし内匠頭は、「お役が済むまでに贈り物をするのは心苦しい」と家臣の意見を聞き入れず、そのためか上野介と内匠頭は間がよくなかったとも言われています。内匠頭は予定を順調に遂行して、3月14日、将軍から勅使へのお返しの品を送るなどして、御馳走役の主な仕事
も終えました。一説によると、勅使御馳走役の内匠頭は最後に、作法について上野介に尋ねました。すると上野介は、「今さらお尋ねになるとは、御馳走役など勤まるものか」と、嘲り笑い、しかもそれは諸大名に聞こえよがしでした。そして上野介は、内匠頭が何を尋ねても全く取り合わず、
前々から腹立たしく思っていたと伝えられます。抱え続けていた不快な思いが我慢できなくなったしまったのか、ついに事件は起こりました。それは、上野介が「松の廊下」にいた時でした。「この間の遺恨覚えたか!」と、内匠頭が腰の小刀を抜いて、上野介に切りつけたのです。殿中は大騒
ぎとなり、内匠頭は上野介の額と背中に傷を負わせましたが、側にいた梶川与惣兵衛に組み伏せられ、討ちとめることはできませんでした。両者の取り調べの末に、将軍の決定によって、内匠頭には「自分の恨みをもって刃傷に及んだことはふとどきである」として、即日切腹を申し付けまし
た。一方で、上野介には、「場所柄を慎み、手向かいもしなかったのはよい。傷が治り次第、勤めに戻るように」と申し渡しました。その頃の侍の社会では、「けんか両成敗」が習わしでしたが、なぜかこの時は用いられませんでした。内匠頭の切腹は、その日の夕方6時過ぎでした。内匠頭は、
無念の思いを辞世に残して、35歳の生涯を閉じました。赤穂城では、このことについて毎日のように会議が開かれ、内匠頭の弟、浅野大学長広の閉門や赤穂城の開城、さらに上野介は生きていて、罰も受けていないことも伝えられました。やがて内蔵助は藩士全員を集め、「この城は浅野家が築
いた城であり、その上、上野介が生きたままで城を明け渡すのは武士の義も立たぬ。開城の時に大手門で切腹し、上野介への処分と浅野家の再興を願い出よう」という意見でその場をまとめました。内蔵助と行動を共にしようとする人々は、約270名の藩士のうち、60~70名ほどでした。内蔵助
は、浅野家再興のために尽くしましたが、幕府には受け入れられず、一方で上野介の隠居願いが聞き届けられて、内蔵助が望んでいた上野介の処分はなくなりました。不公平な処分は、そのままということになったのです。そして年は明け、元禄15年。大学の閉門は解かれましたが、広島藩浅
野家へ差し置きとなって、これで浅野家再興の望みも完全に断ち切られました。それは同時に、討入りの決断を意味するものでもあったのです。内蔵助は、これまで従ってきた者たちに、改めて同志としての誓いを固めさせ、こうして討入りの日、元禄15年12月14日が決まったのです。このよう
前夜祭もある?毎年いつ?
な歴史のある12月14日、討入りの日を称えた赤穂義士祭であります。赤穂義士祭には、毎年5~6万人もの人が訪れます。いつも穏やかな赤穂市は大変に賑わい、人々の合間をぬって歩くほどの繁盛具合です。屋台で買った食べ物を口にしながら、このお祭りの最大の目玉であるパレードを見るの
が、義士祭の醍醐味です。見どころは、何と言ってもパレードです。当時の参勤交代をイメージした「大名行列」、忠臣蔵の名場面を車上で演じる「山車」、毎年芸能人が特別出演する「義士行列」など、お客さんを魅了します。2018年は、俳優の高橋英樹さんが出演されました。12月13日に
は、花岳寺や大石神社を中心とした、義士追慕の前夜祭が開催されます。赤穂城もライトアップされ、非常に美しいです。赤穂義士祭は、義士祭の日は、中学校までは学校が休みになり、高校からは午前授業となって、午後からはお祭りの手伝いをすることが決まっています。次回の開催日も変
わらず、2019年も12月14日です。画像はイメージです。
アクセスは?駐車場は?
兵庫県赤穂市の、息継ぎ広場やお城通り周辺です。播州赤穂駅の南口を下りれば、すぐにお祭りの雰囲気を感じていただけますし、南口を下りた時点でお祭りをご覧いただけます。
お問い合わせは、0791-43-6839
公共交通でしたら、JR播州赤穂駅から徒歩3分です。お車でしたら、山陽道赤穂ICから国道250号経由で4km10分です。駐車場は無料で、2200台お停めいただけますが、駅からすぐですし、可能であれば電車の方が便利が良いように思います。赤穂からの電車は本数が少ないので、お帰りの電車の
時間をお決めになってからお越しいただくのが良いかと思いますが、駅の施設の中でも休憩していただけるスペースがあるので、もし待つことになっても大丈夫です。
まとめ
主君浅野内匠頭の無念を晴らすために討入りを果たした赤穂義士たちの、ひたむきなまでの忠誠心を称えた赤穂義士祭。ぜひお越しいただいて、元禄の世界に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。